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躯は地下のコロキアムに足を踏み入れた。ここにわざわざくるのは久しぶりといった感じだ、最近はパトロールのことばかりだった。躯は思う。

コロキアムはいつもそこに沈んだ冷たい一定の空調を保っている。

ここの空調は腹の底をひやりとさせ、有事の本能、危機感と生き延びたい欲求を刺激する。ここには殺戮の潔さと死の無惨の堆積があるからだ。

技を研ぎ競うなかで死んでいったかつての部下たち。特殊訓練のために放り込んだ大量の低級妖怪。そういった死骸が層をなしてコロキアムの床、壁、天井を形作っている。

 

百足内に自分の居室以外、とくに立ち入り禁止の場所を躯は設けないが、コロキアムは部下たちにとっては躯の部屋のひとつという意識がある。だから普段の修行には他の場所を選ぶことが多い。このコロキアムは彼女の部下である者にとって、彼女の召集によっておもむくところであり、生き死にをより強く意識して入室する場所だった。

誰もいないことを期待して躯はコロキアムにやってきたが、時雨がいた。剣が空を斬る音と鈴の音が規則正しく鳴っている。時雨の装飾品の鈴は真鍮でできていて、すこぶる上等な音色だ。躯が時雨を認めた即座に彼は振り返り、躯は内心で舌打ちする。

「躯様」

「続けろ」片手を振って時雨をとどめる。

剣の型をさらっていたようだ。時雨は躯の言葉にかまわず体の動きをおさめて躯のほうに向き直る。

「なんだ。やめろとは言ってねぇ」

お前に用はない、むしろ、近寄るな。そう念じながら躯は不機嫌な声を出す。

時雨はじっと躯をみた。時雨は躯の内心の命令を裏切って近づきそうなので、尊大な顔をして躯から時雨との間合いを詰めた。時雨は整体師の表情で、

「少しむくんでおられる。」

と躯に申し上げた。

躯の機嫌を承知で時雨は続ける。

「勝手ながら躯様の体癖を見立てますと、湿気のある場所は苦手な体質と思われる。風通しのよい場所につとめていらっしゃるとよいのです。不調の時は体内にこもった火熱を風で散らされるとよい」

熱がこもって苦しいから、この空調が快適な場所に来たんだろうが。無言で躯は思う。

「失礼をいたしました」

時雨は礼をし、つっと躯の横を通り過ぎコロキアムから出ていった。

 気の利く野郎でよかった、ここで妙な気を起こしてくる新参だったら撲殺するところだった。現状、煙鬼からまわされている人員は正確には俺の管轄ではないから殺したくはないのだ。煙鬼は個人的にはかまわないと思っているだろうが。

躯はそう思ってやっとひとりコロキアムにたたずむ。以前飛影が切りつけた石像に腰掛ける。目を瞑る。

 

 

 

移動要塞にやってきたときは躯と呼ばれる者の正体が知れなかった。直属の機会を得る前にその姿と体の動きを観察し、古老か、子供のままの種族と推測したりしたがどれも微妙にとらえきれない印象が残った。

呪符を解いて姿をみせたときにやっと、なるほどと合点がいった。しかし若い女の姿をしていると見抜けなかったことには自分の職能柄不覚を感じている。

躯様はご自分の体を未だ把握していらっしゃらない。こうやって不調のときについこちらが僭越ながら口出しをしたくなるくらいに。すれ違うときに新鮮な女の汗の匂いが香りたった。少年の汗にまじって。ということは、さきほどまでまぐわっておられたというわけか。むくむような性行為なら、いっそされるな。と時雨はもちろん躯に進言しないが、思う。コロキアムの出入り口を振り返る。

(あのコロキアムは立ち入りを禁じられていないからここで儂は修行していたのだ。)

 

躯の残忍さに自分の雄がかき立てられるとき、時雨はここに来ていた。

膚が仄白く、造作が艶に整っている。表情は変幻自在で年齢不詳の面立ちだが、むくんだとき、女が見せるいちばんいやな表情――不機嫌のねばつきとおもねりが出ないのが時雨には不思議だ。

頭領がむくんで不機嫌になるときは女の顔からは程遠く、がんぜない子どものそれだ。

なぜかこちらがおたおたと、心を砕いてやらねばならないような気持ちになる。

そんなとき、頭領のくちびるがかわいらしくめくれ上がるのを時雨が認めたのはつい最近だ。

きれいな顔立ちが不機嫌の感情に揺れるとき、男心をたらしこむロリータが見え隠れする。

そんなぐあいに躯は、体調のすぐれないときはとりわけ幼児のころのおもかげをほうふつとさせる顔つきで部下の男をして庇護したい欲望をそそらせた。それを目の当たりにして手を伸ばしかけた部下ははっと思いだし、彼女の全体をまじまじと眺める。

ケロイド状の半分が惨として、片方の目玉は干上がっている。

印象の落差に、見ている男の感情は奇妙に揺さぶられる。

 

近頃、より躯に畏怖の念を感じる時雨だった。ひれ伏して偶像化できればもっと気楽に側で仕えていられるだろう。

しかし部下に自分の偶像化を許さず、生身をむき出しにして近づき、動揺させる。そして、われわれにとっては生きるか死ぬかのコロキアムで、部下を部下とも思わない気安さで野趣な酒宴も張り、酒飲みの享楽をともにされる。

同じ場所で次の日には真剣勝負で誰かが倒れ、コロキアム内部の死者の層がわずかに厚くなる。

軍のころから、今にいたるまで、それは変わらない。

強くなりたい者はこの平和統治の中枢にいても自律的に闘わせているところが躯の怖さだった。

ただまっすぐ、「強くなりたい」という願いだけではない。今ではアウトサイダーの欲望となりつつある殺戮への希求をも認めておられる。

 

コロキアムの内部こそが躯だと時雨は思っている。自分から側に寄るにはおそれ多いかただ。だから時雨はコロキアムの中で剣をさらい、みずからの躯への妄執を沈めている。