無邪気

躯軍解散の時期のエピソード。奇淋の独白。

躯の無邪気は唇にあらわれる。ヌードベージュの唇が左の美しいほうへの丘陵にひきあがるとき、それはたいてい会心の出来事に満足の意を表す頭領の意思表示なのだが。

驚くほどの迫り方で男の心を虜にする。

奇淋はその唇をみるためにそばに仕えているかもしれない。

もう何百年も仕えている男が奇淋である。

呪布を解いたときにあらわれる意外なほどの幼顔、

かと思えば陶磁器のぬめりを見せて能面のような顔になるとき、

年齢不詳の面差しとなりそこにきつい険が入り込む。

あの方は、ところどころ甘えをみせてもたれかかってくるが、

俺にすべてをあずけては来られなかった。

部下であるから当然である。そしてあの方は、俺には想像ができない虚無をせおっていらっしゃる。

ただいちどだけ、あのかたの上唇にふれたい。

奇淋は長年自分の役割、については自分をそうやってなだめてきた。

しかし、飛影はすべてを飛び越えていってしまった。これから男になっていく少年。

忌み子飛影が。

あの唇に食べられてしまえたら、と奇淋は思う。

咥えられたい、と欲望したのはもう100年以上も前で、

今ではそういう、躯への直接的な欲望は根源的なイメージの願いと変形してしまった。

ものを喰うときよりも酒を舐めているときの躯様の表情が良い。

なあ、という他の直属配下の話を横目に牽制するだけだ。

部下を睥睨する眼は頭領躯であるが、百足の最奥にいるときは

ある瞬間にあどけない顔をしてみせていることがあった。

それを知っているのは、とにかくもっともそばで知っているのは奇淋であった。

物見台でも、最奥で碁の相手を務めるときも、自分がつねにいちばんそばについているという自負があった。

それを揺るがしたのがほんの最近、幼児の時分、北東13層で忌み子として名を馳せたものである。

成長して子どもは少年の気配をみせてやってきた。

じきに青年となる。

いまではその、長く仕えてきた頭領の隣にいる場所が飛影であることが奇淋には痛恨である。

とはいえこの日まで奇淋は意識を知らず賢明に持ち直してきた。

俺は躯の重鎮である。戦闘能力においても、文官としても。だから。

逃げられない。奇淋はその心を忠誠心として、また古参配下の自尊心として保っていた。

そう思っていたのにあのかたは、いともあっさりと我われの紐帯をほぐしてしまった。

おそらく、雷禅の息子の提案を聞いたとき、

躯様の唇はめくれあがったことだろう。

獲物を喰らう獅子の子のようなおそろしい無邪気で。

呪布で顔を隠されていた。飛影はきっとあの唇を見ていない。そう思い込むことだけが飛影にたいする俺の意趣晴らしだ、俺の悪意だ。そう思った。

あの忌み子はまだ躯様の本当の恐ろしさを知らない。あのかわいらしさを、知らない。知らず我われ男を取り込む、無邪気だ。

そして、ほんとうにこの魔界の淀みに倦怠されてしまった太古からの女だ。

それは存じている。

しかしなぜ、あの男の提案に即座に乗ったのか。

俺といる時ではなく、あの子どもがいるときに。

そのときに、ふつりと、奇淋のなかで忍耐が途切れてしまった。

躯様は尊大な子どもなのだ。子どもになりたかったのかもしれぬ。

守ってきたものをあんなにかんたんに放棄なさるとは。

奇淋が感じている痛みはそこではないのに、そこに怒りを向けることにした。

「あなたさまを、殺しに参ります」

軍国解散後、躯と奇淋は碁を打った。

寸前で頭領躯が勝ちをかすめとったあと。

もう一度告げた。

「あなたさまの秩序を、いちどでも壊しにまいりましょう」

躯はおそろしく無関心に冷たい顔をしていた。

しかし俺は、はじめて頭領に心情の吐露をした。

あの方は当然、知ってらした。

今、ともに戯れる少年がそばにいること。

それが頭領の欠乏に適っていたこと。

いま、躯様は、少女と女をそのままに見せておられる。

忌み子の前で心を許している。

俺はそれを許せない。 

奇淋は飛影を目に入れないで歩き、百足を去った。

倒すことは不可能なのに、このものにしたくなってしまう、躯の姿を、体の輪郭を執拗に思い浮かべながら。