躯の居室はかわらない。飛影の残す匂いだけは増えた。だいたい日に一度は「躯の命で足を向かわされた」というような不機嫌さをもって飛影はやってくる。
酒にほどけて気に入りの石をまさぐっている躯を眼にした飛影は哉無のねばつく笑みを思い出した。けたくそ悪い野郎ばかりがこいつのそばにうろついている。
奇淋の躯を観る目も暗かった。あいつもピーピングトム。眺めているだけで手を出さない。出さなかったのか?ふと新参の飛影の頭にそんな疑念がまとわりつく。
トーナメントの前、闘いを目前にして集中していたいのに、嫌な野郎だ。飛影は嫌な野郎の寝台に胡坐をかく。
「哉無に奇淋について聞かれたぞ」
「奇淋か?は、あいつは去勢された男だ。」
躯は酔っ払い特有の脈絡のない返答で飛影を見上げる。
美事なピラミッド型のアンバーを舌に乗せてつきだして、その先端を上唇に差し込むように押しつける。それは妙に奇淋の欲望と一致した仕草だった。ただ一度、上唇にふれたい。この奇淋のつぶやきを躯は知っているだろうか?
飛影はそのことを知らないが、この躯の唇になにか別の男の気配を感じた。まさか自分の知っている奇淋の想念とは思いもよらなかったが。
「奇淋が出ていったな。」
「さあ。…どうだか」
「奇淋は有能だったんだろう。まして古参だ。惜しくはなかったのか」
「惜しい?」
躯はけげんな顔をして、唇からピラミッドを離し、持ち上げてその石の内部を天井の明りに透かす。飛影がその姿を眺めていると、
「俺が変わったのが嫌だったはず」
ふ、とかすかに目を光らせて躯はにたりとした。酔いが完全にまわって顔がだらしない。
「勝手に秩序を壊したから逆上してんのさ。去勢されている癖になあ」
(こいつ、何言ってるか、わかってるのか)
飛影は酔いに身をまかせる躯の姿に嘲りの感情をみた。浅ましい野郎だ。
気に入ったと思ったことを撤回したくなるほどだ。
なにか反芻しているときの躯ほど腹の立つものもない。
が、ふいに躯からすべすべとした飛影の気をひくものが香りたった。
クチナシのような、重みをもった体臭が飛影の鼻腔に届く。飛影は躯の顎をつかんで琥珀を取り除いて投げ捨て割った。柔らかい樹脂はいともたやすく割れる。
「そんなかに虫がいるんだけど、俺の分身みたいに思ってた」
割れたアンバーをみやりながら躯は独り言のようにつぶやく。
静かに重い、この部屋の空気全体に、琥珀になる凝固以前の樹脂がたらしこまれ、ふたりで琥珀のなかにいる錯覚におちいる。
「惜しいとかそういう感情は俺はもたねえよ、飛影」
躯はそういって琥珀の破片を眺めていた緑の目を飛影に向ける。
「誰かといたいなんて思ったことはねえしなあ。…思うところでお前くらいかな」
と、呆けていたようにしていた眼を見張って躯はひとり言のようにつぶやいた。
躯はかがみこみ、琥珀の破片をひろってその柔らかい樹脂を指先でしごく。
「おもしろい。ここの部分はまだ時を経てない琥珀だったんだ。するとかすかに香るぞ」
躯は続ける。
「これで虫は外に出てしまった。俺も、後少しで出るんだな。ずっと同じ場所にいてな、いい加減あきていたのさ。今朝のユウスケは痛快だった」
躯から濃厚な花の香りがして今度は飛影が動けない、息苦しいが、確かに夜ならこのとろみにからめとられてもいいと飛影は火になりながら、思う。
今は俺が琥珀の中の虫になったような感じがする、と飛影は思いつき、コイツの饒舌はもういいと、躯に手を伸ばす。
躯はさりげなく体をよこにずらした。飛影に向けるでもなく、独り言を続ける。
「俺はそうだな、お前と遊びたいんだ」
「遊ぶ?」
虫のように閉じ込められて火になっている飛影には不本意な言葉である。
「で、まあ」
自信なさげに躯が目を落としてつぶやく。
「遊び方がわからないからこんなこと、しているんだけどな」
だから意識をみせた。こいつにならすべてを見せられる。あのとき自分が抱いた感情まで飛影に伝えられればよいのに、飛影に語りかけながらもどかしさが躯の心をよぎる。せんないことだ。
躯は義手で飛影の裸の腹をさすった。もう十分火になっているだろう?
確かにこんなことだが、火になっているオレがまったく愚かじゃないかといらだちをこめて躯の手首をつかむ。誰かの気配のする上くちびるを強く咬む。
いらだちが性欲に転化される。他の男を仲介した、嫌な夜の始まりだ。飛影は舌打ちする。たまらない。
しかしながら琥珀の倦怠に支配される中で、逃げて行った奇淋という男の、去勢されたまなざしの気配が今晩の飛影の欲望をあおった。躯はわかっている。去勢された男の想念をこの寝床に取り込むことでこの夜の官能がいやますことを。
躯が飛影の昂ぶりに応える姿態でかれの腹にのしかかる。かのじょの背中の無傷のほうがクチナシの花のように白くぬめりを見せた。