4

飛影が奇淋を疎ましく意識するようになったのは彼が躯の碁の相手をするのを実際に目にしたときだった。奇淋のあの甲冑は戦闘用のものなので、碁を打ちにやって来る彼は素顔をさらしている。

一重の、厚くひきしまった唇を持った男である。職務中は喋るがそれ以外の生活での言葉数は多くない。一見すると頭領であったときから躯にも距離を置いているような印象をもつ。

しかしながら頭領と筆頭の実力に倍以上の開きがあろうとこの二人にはなにか秘密めいた色がある。飛影は碁を打っている二人の姿からそう感じ取った。

躯と奇淋はテーブルの碁盤を挟んでいた。脇に人間界の読み物を置いている。日本の、雪菜らのいる国の碁打ちの対戦を検討しているらしい。

次の都市に到着したさいの百足の乗降人員に変更が生じたことを伝えに来た飛影は、彼の入室を無視して碁盤をのぞきこんでいる二人を見ていることにした。

ズブロッカを飲んで躯はくつろいでいるのに飛影は気づく。だらしない肢体で、しかしながら話の勢いでは奇淋を云い負かし納得させているらしい。

「ここ。ここでヨセて我慢した方が白の最善手にかなっていた。だろう?カトウの解説よりもそっちのほうがいい」

石を置き終え、躯が満足そうにひじ掛けに足を乗せる。そして頬杖をついて奇淋を見上げた。

碁ってそんな行儀で打つもんじゃないだろう。飛影は思うが奇淋はそんな躯を野放しである。奇淋は盤上をしばらく確認したのち躯に顔を上げ

「確かに。恐れ入ります」と目を伏せた。

それは不思議と親密な空気である。飛影はじっとふたりをみている。躯がこんなに無防備なのは、酒のせいか。

 

「この碁打ちの感性は、俺が最後に喰った野郎に似ているようだ。」

雑誌を取り上げて、つくづくと棋譜をみて躯はつぶやいた。

「あの男に碁を習ったから、目につくんだろうな。こういう打ち手が。」

「あの男の碁に、似ていますか。」

「あんまり囲碁ばかりで俺を見ないから、最後には喰ってしまった。」

奇淋は黙った後に静かに

「この男を食べに行くことはないのですか」と尋ねる。

「思いつかなかったなあ。…今の人間の匂いってあんまり食欲をそそらねえからな、なあ、奇淋。昔のほうがいい匂いがした。そう思わないか。」

「そういうものですか」

「細くてなあ、筋張っていて、いつも盤上のことばかり考えて栄養を取ってない奴だった。

いい手筋ばかりを俺の指に残してくれたが、そのかわり、だからいつも盤を囲んでしかそいつとは出会えなかった。」しかめた眉の下の緑の瞳がかつてとらえた獲物を目の前にしたように、悦びの光を放つ。躯はだいぶ酩酊しているようだ。奇淋を前に話し続ける。

「綺麗な時間だったが、綺麗なだけでは物足りないだろう、それなのに、俺のほうを見ない、言葉も交わさない。だから、腹におさめてやったよ。」

「その男が、今でもいちばん美味いもの、なのですね。貴女様にとっては」

奇淋が尋ねてやる。

「そうだ。旨すぎて、もうあんなのはいないだろうから、直に喰うことはあの男でよしたよ」

あんなに碁ばかりで俺をみなかった。あれくらいほしかったものはないのに。だらりとした顔で躯はつぶやく。

「できればもう一度、あれの匂いを嗅ぎたい。碁を打っていた時のあの香気が忘れられねえ。あいつをもう食べられないなら、食欲も虚しいものだ。」

「だから酒ばかり召しあがる」

奇淋は静かに躯の言葉に応じる。躯は、なにを考えているのか天井を仰ぎ、首を傾げた。

「躯様。」奇淋は躯にも聞き取れるかどうかといった低い声でささやく。

「一度きりでよいのです。その男の懐は躯様を受け入れなかったのですから、永劫同じことでありましょう」

「同じか?」

「同じでしょう」

手負いの獣の仔のような顔をして、躯は奇淋をみた。緑の瞳がきつく光って、潤む。奇淋を凝視した後、甘えるような声音でかれに宣告する。

「お前は人間じゃないから腹にはおさめてやらない。碁の相手をしてずっとそこにいるんだよ。いいね」完全に幼い少女の顔に化けている躯は笑った。目の前で動くことを禁じられた奇淋の血肉をしゃぶって啜るような、残酷なくちびるの上がり方だった。

(その位置に、か。)

2人の男はその媚態に心が揺れる。若い1人は、不本意にも、この2人にたいする殺意とともに。もう1人、古参の男はこの状態になると現れる躯を待ちわびてずっと碁の相手をしていた。今日はさらに憂愁に揺らいでいる。昔乞うた男の記憶にその心をさまよわせているのか、傷をさらけ出してまったく危うい。あの写真のころの、少女の躯だった。飛影は躯がこのような情態を見せるのを、ここで初めて目の当たりにする。飛影は覗き屋の役回りを自分に割り振っているふたりにたいしてちりちりとした殺意を感じる。躯は目の前にいる奇淋の衝動を苛め抜くように、磐上を挟んで以上は越えさせないといっている。奇淋はそんな躯に手もなく絡めとられている。酩酊して碁を打つ躯は奇淋に目と仕草と命令でもたれかかっている。

恍惚とした表情をみせていた躯は眠気を覚えたらしく、

「寝る。おまえら、下がれ」

と言い捨て体をひるがえし奥の幕に戻った。奇淋の言葉など最早耳に入っていなかっただろう。昔、最後に喰った人間との手筋を、不眠症気味の躯は貴重な睡魔とともに反芻したいのかもしれない。

奥の明かりが消された。飛影と奇淋は取り残される。甲冑を外していた奇淋はまたそれを身につけ、ソファで立膝を突いている飛影には目もくれず、静かに出て行った。

飛影は動かないでズブロッカの瓶を眺める。香草を一本残しただけで、瓶は空になっている。