5.来訪者

 

午前3時、雨が降っているのに幽助はまだ屋台を開けている。酔いつぶれて寝ているサラリーマンがひとり、いるだけだ。どんどんベンチから落ちていきそうな寝姿の男を介抱してやるでもなく、彼は放心状態でハイライトの2本目をつける。点火した煙草の先端がその瞬間オレンジにともるのを見るのが彼は好きだ。

煙草の先を見つめていた視線の先、前方からかっちりとした服に整った姿のものがやってくるのを幽助は気配でとらえた。意外な来店者に幽助は煙草を落としそうになった。まだ暗がりに姿をとかしている。でもこいつの気配も、オレの目から見ると煙草のオレンジだ。トーナメントで煙鬼と闘っていた時の妖力の色は灯のオレンジだった。

整った人形のシルエットだが、今この時間帯に人間がこのものを目撃すれば明らかに異形とわかって動けなくなるだろう。これが南野秀一である蔵馬との大きな違いだ。幽助は煙草を消した。彼を訪ねて屋台にやってきたのは、妖力は抑えて、人間界らしい服を選んで着用したらしい、軀だった。

「よう。呼んでも来ないからこっちから来てみた」

 ロシアのKGBみたいな格好に特徴のあるベレー帽で補聴器のあたりを保護している。右目には眼帯。爛れ乾いた肌も義手もそのまま、皮のブーツ。そんな軀のようすは時代がかった歴戦のスパイのようだ。深夜の氷雨に似合いすぎるいでたちだ。物語から出てきたようで幽助は見惚れた。子供のころ、観た映画にこんなスパイがいたような気がする。思い出した。かっこよくて、ついて行きたくて、子ども心に必死にスクリーンのなかに入って手下になってみたいと思ったものだ。そのあこがれは、外でけんかばかりして走り回っていた幽助の子ども時代のなかではめずらしい、陶酔感のある記憶だった。目の前に来た躯を見て急によびさまされた憧憬だった。

 「酒くれ。焼酎がいいな」自分の来訪に驚いているらしい幽助を意に介さず、軀はベンチにこしかけると頬杖をついて注文した。

「いや。…ああ、焼酎な。あんたが来ることなんて初めてじゃないか、ちょっと驚いてる」

最初の一杯をテーブルに置くと、さっそく躯はくちを付けた。安酒は口に合わないんじゃないかと幽助は躯を見守る。躯は構わないようすでぐびりと喉をならして、飲む。急に機嫌良さそうな顔になった。ふう、とかすかにため息をついて、「うん、アルコール臭がとげとげしくて、いいな」

「はは。ありがとございます。ラーメン、喰ってみる?」

「いや、申し出だけ。ありがとう。」

「やっぱ人間しか駄目?そこのな、隣のおっさん身も世もなく人生恨んでたぜ、上司に騙された、にょうぼに逃げられた、とか言って生きてたくないって。喰っちゃう?」躯は横目でそれをみて、ふっとしらけた顔をする。「こんな男…」とつぶやいて

「匂いがまずい。こんなの口にしたら腹下すぜ。お前人間喰わなくてもそれくらいわかるだろ?じつは、人間以外のものもオレは食えるんだよ、だ」

「でもこっちの喰い物は喰えない、んだっけ。あ、喰おうと思えば喰える?そう。そういえば、あんたじっさいのところ長いこと人間喰ってないらしいじゃない。躯さん、嘘つきなんすね。人間しか食えないって言ってたじゃん。前はさ」

グラスにお代りをついでやろうと瓶をかかげる。

「それはお前、当時の戦略上だ。本当のことばかりいうわけないだろ。しかもオレの口から聞いたわけじゃないだろう。オレはあんまり嘘つけないから、顔まで隠してたって言うのに。嘘つきなんて心外だな」躯は笑ってグラスを差し出す。

「顔隠してたのはそんな理由かよ。単純すねえ」冗談とわかっていても幽助は乗って酒をついでやる。接客というやつだ。

「でもよ。」幽助はなにやら思い出し笑いをして言った。

「飛影くんが躯は嘘つきだって言ってたよ、いつだったかな」

「へえ。あいつに、言われたくないけどねえ」

躯はぐっと飲み干す。

「仲良しさんの観察だから、事実なんじゃないの。嘘つきってさ。そういえば、あいつあんまりあんたのこと教えてくれないんだけどさ。聞くじゃん、やっぱり」

「酒癖悪いとか、どうせ言ってんだろう」

「いやいや。躯美人だよなって誉めたんだぜ、あ、オレがね。したらさ、あいつこめかみぴくってさせてた。とらねーよってつっこんだら取る取らないの意味がわからないって言ってたけど飛影お前必死だなって笑ったら殴られた」

「飛影が余裕なくすと、楽しいよなあ」

にやっと、思い出し笑いをしたあと躯はゆっくり唇の両端をあげた。この女、いかすわ、

幽助は突拍子もなく思う。躯は喉をそらし、コップの中を空にする。はやいピッチだ。うまそうに飲む、この女。

「しれっと意味深なこと言うねえ、ねえさん。」ま、もう一杯、と幽助はさらに酒を勧める。躯はすました顔で杯を進めている。怖いやつだとわかっていても今は妙にかわいく見えて、もっと飲む姿を見ていたいと思う。躯と酒飲むってためにあっちに行くのも、いいか。幽助はそんなことを考えながら躯がコップを空にするのを待ち構えている。

「なあ、雷禅とはどんな仲だった?」幽助は話を振る。

「敵同士」

端的に躯は答える。

幽助は「何で敵になって陰湿ににらみ合ってたのか、なんとなく気になっててよ。だってあのじじい、」死ぬ前にあんたとなら手を組むのはいいかもしれない、と遺言してたぜと言いかけて、伝えるのをやめた。躯が答えるのを待つ。

「気に食わない奴だったがいちおう、昔なじみだった。」

「ふうん。煙鬼とかあいつらとは別の?」

「そう。当時、あの連中と顔を合わせることはなかったよ。食糧探しの場所がかぶってた。雷禅とは。だから小競り合いしてた」

「あんたはどうしてここまで強くなった?」

「怒ってたからだよ。フェアじゃないことが多すぎて気に入らなかったから反抗してた。そうして今に到る。」

「お前はどうしてここまで来たんだ。人間だったわりに、雷禅の素質をついでいたとはいえ、ここまで這い上がってくるとはなかなかのもんだ」

「目の前にあるものぶったおしてたらここまで来たって感じか?」

「お前は理不尽なところがあるがフェアだ。理不尽でもフェアならよい。」

泡盛はないか?ジンだともっといいし、あとオレはズブロッカが好きだ。ジンはなあ、文句は言わねえがタンカレーが好きかなあ、とおよそ屋台に不似合いな銘柄を挙げる。

躯、なんでそんなにすらすらこっちの酒の種類あげられるんだ、幽助は呆れたように尋ねる。

「どうして人間を喰わなくなった」

「お前がおとなになったらおしえてやるよ」

なおも幽助は引き下がる。

「同じ質問を雷禅にしたとき、あのじじいも同じようなこと言ってはぐらかしたぜ。くたばる前に教えてくれたけどな」

「ほう。」眼帯で隠していないほうの、目がみひらいた。

「まあ、親子ってもんは伝えてくもんなんだろうな。…俺の人間を腹に入れてない理由も雷禅と同じだ。いや、根本はまったく違うんだけどな。違うからにらみ合ってた」

「なんだ、あんたも人間に惚れたことあるのか?」

今度は片唇だけあげて幽助の突っ込んだ姿勢をかわす。あ、やわらけえだろうな。幽助は思わず手を延ばしそうになる。さっきまでさんざん饒舌で気安かったのに今は不敵に無言で微笑うだけの躯である。眼が妙にうるんでる、こいつ、と幽助は気づいて体がざわめいた。躯をいたぶってみたい欲求が体の下から上へと這い上がる。

「だから、大人になったら教えてやる。そのときはここにズブロッカを置いとくことだ。」

飲み代なんか当然払わずに躯はベンチから腰をあげて立ち上がり、幽助の姿をじっとみつめる。あんなに飲んで軽口たたいていたさっきとはうってかわって、真摯なまなざしだった。幽助は圧倒される。

「オレ、いちおうもう大人なんす」

妙にどぎまぎしながらも、ふざけてみる。

「なら尚更こっちにも一度顔出すことだな。大人ってのは、めんどうなことから片付けてくもんだぞ。

お前がここでぐずぐずしている理由が判った。優先順位、自覚したら来い。とはいえ期日は迫ってる、ちょっとケツに火をつけろ。

トーナメントの3年っていうのも人間の時間だよな。ま、ずるずる伸ばして今にいたるわけだがよ。ちょっと周りにしめしつかなくなってきたから煙鬼も俺もちょっとかんがえているところなんだ。もっと長く設定すると事情がまたちょっと違ったんだけどな。企画者はお前だったからな、わかってるな。大人だっていうなら、待ってるぞ」

振り返りざま、躯は雷禅の息子に尋ねた。

「そうだお前、囲碁はできるか?」

「は?五目並べならできんぜ」

「なんだ、詰まんないやつだな。人間界にいるならやれよ。」

眉のあたりをしんなりさせ、ふっと笑うと躯は数歩足を進めた。そして突如として異形の気配を消した。明け方になる前の闇に乗じて消える格好である。

小柄な、抱きたくなる女だよな。でも、対峙しているとあの小ささがわからなくなる。朝方、寝入る前の最後の一本のオレンジの火を見ながら思った。

「あとオレはズブロッカが好きだ」、でんと主張した時の顔がなんだかかわいかった。こどもか、と小突きたくなる。親父もそんな気分で躯と対していたんじゃないかとふと思う。唇が思いのほかえろくて、いままで気づかなかった。小娘なんだか、経験十分な年増なんだかわからない顔をしてやがる。いや、年増もいいとこなんだろうが。