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 幽助の今後を頼んだ安堵のためか、今の幻海はもう一介の人間として躯と対していた。躯の貌を確かめながらしじまに身をひたす幻海に突如ひらめくものがおとずれた。幻海の言葉がほとばしる。

「なぜ妖怪は強くなればなるほどたいていの場合強く、長い寿命をえるのか。下級妖怪はたいてい自然の寿命からして短い。もちろん、種族ごとの寿命の平均は種族によって大きく異なります。種族によって寿命の平均は異なります。それはもちろん知っています。種族の平均寿命の範囲内でも、各自の戦闘能力の強弱によって寿命の長短が生じます。闘いによる淘汰の結果ではなく、妖怪にはこうした寿命の傾向がある。妖怪の常識であるこの摂理がわたしには解せるようで解せませんでした。わたしは妖怪の摂理を理解したかった。

 躯。あなたをみていま腑に落ちる。あなただけに当てはまる推量にすぎませんが。

 あなたの生は矛盾をはらんだ逆説なのでしょう。あなたの体は、つねに死を願っている。死に向かう欲動が強い分だけ、生に引っ張られているのがあなたです。あなたの存在の根拠は人間界でいうところの怨霊のありかたに近い。念の強さがあなたを容易に死に向かわせないのでしょう。怒りがあなたを長い時間を生き続ける質の妖怪に、したのでしょう。そのような生き延び方は言うなれば怨霊なのです。

 じっさいのあなたの本来の命はそこまで長くなかったはずだとわたしは視ます」

 幻海は躯を見てそれを確信したのだ。躯の過去など幻海には見えないが、その貌には何か許せないものから怒りの力で脱出し、生き延びてきたことを示すしるしがあった。幻海は顔貌からそうしたしるしを読むことにたけている。躯は脱出したことで、本来の宿命から外れ、長い道中を歩むことになったのだと幻海は推量した。

 躯は幻海のこの見解にしずかな喜びを覚えた。しばらくの時間をかけて残りの白湯を舌で転がして味わう。遠い昔、碁盤だけをひたとみつめ、好敵手だった死者との榮絆に心をさまよわせていた碁打ちを生きたまま喰った。

(あいつは私を盤上以外では見てくれることはなかった)躯に少女だった頃の体が引き裂かれるような第二次性徴の痛みがよみがえってきた。(幻肢痛と同じだ)と右のてのひらを見て思う。喰らうことでほしかった男を血肉化したこの体。痴皇を未だ殺しに行けない自分の不可解な精神。飛影がやって来て、三竦みの変動期に、思えば随分悠長な話だが自然の流れで兄弟のように睦んだ。氷泪石が導いたといえる飛影との時間を得て、躯はそれでもう充分だと残りの白湯をすっと飲み干した。

 赤富士のご拝見に目を落とした躯が、碗の底に何かを見つけたように無邪気にうれしげにすうと目をこらしたのを幻海は目にした。 碗の底を見つめるうつむいた躯の口唇がつぼみのようにくぼんだ。それが薄い桜の気配を漂わせてほころぶ。口元のひきあがり方があどけないこどものようで、同時に年増女のふてぶてしいなまめかしさがあった。

 訪れた際の引き締まった軍師の顔つきと今では躯は全く違う相貌となっている。その変化に幻海は目を見張る。

(引き結ばれた口元はどこに行った)。

  幻海は女ながら、老いて死期の準備に入ったというのにこの瞬間こころならずも躯に惚れた。大きな妖怪に魂を奪われる体験を幻海は初めて迎えた。

 のぞまないのに授かってしまった強い生命力に引きずられる形で、生き続ける妖怪が気づいていないらしい己の蠱惑。躯の体の芯に蠱惑の香木が埋め込まれているのだ。業深いものを背負った妖怪だ。

(あの飛影が躯のもとにとどまっているのもよくわかる)と幻海は思う。飛影をあわれに思った。

  躯はまだしばらくこの業に時間をかけねばならないのだろうと幻海は予見する。その道中のさびしさを幻海は思った。そこを歩む躯への胸苦しい愛おしさに幻海は座卓の対面にいる躯の手に額をこすりつけたく思った。

道中はおのおの各自で歩むものと定められている。それでも、幻海は躯に道行したい、そんな感情にのまれたが腿の上に置いた両拳を固く握り踏み自制する。

(この夜に引きずられれば、ここまで来たあたしの道中が崩壊する)

 それでは尋常な人間として生を全うすると決めた若い日の決意が全うできない。躯にこれ以上見惚れることは、幻海が戸愚呂と袂を分かったときに心に決めた生き方が最後の最後で壊れることを意味した。あのときに孤独を受け入れた決意を幻海は死守したい。躯の無意識の磁力を、幻海は老熟した達観と霊能者の技量を用いて注意深くしりぞける。

 まるで死期に試された最後の試練だと幻海は思う。なぜ応接間でこのような圧倒的なものをうかつにも待ってしまったのか。自分の霊能への慢心が戒められたのか。

 躯の眼から心を放すため、躯に呪をかけるようにさきのことばを繰り返した。

「怒りがあなたを生きながらえさせたのでしょう。あなたはすでに死体の名前を持っているというのに、そんなにも長く生きて」

「そうだ。長く生きてしまった。」

「厭きながら」

 幻海の重ねる言葉に躯はうべなう。

 厭きているのに、消えたいのに生からまだ逃れられない。幻海は躯という名とは裏腹のこの妖怪の生のゆくえに、もう一度心がねじ伏せられた。幻海は女を貴ぶ言霊を我知らず口にした。

「うつくしい女」

 霊能のある女の魂から出た強い言霊は空間にほとばしって乱反射を起こす。言霊に反応した躯の貌に変容が起きた。爛れたのち長く干からびた顔が水分を帯び、左側の貌とほぼ左右対称になった。赤富士の碗を持ち上げていたてのひらも義手ではなくなった。

 幻だろうか。躯はそれに気づいていない。幻海は異様な夜と自らの言霊が交わってもたらした無傷の姿にみとれた。

(傷を失っても美しい女だ)

 幻海はこれ以上躯に心を奪われぬよう自らの情動を閉ざす。こうして幻海は躯の訪れとしてやって来た人生の最後の試しを乗り越えた。

 そろそろ夜が明けはじめる。

 障壁が閉まる頃が近づいてくる。朝鳴きの鳥がはやまって一鳴きした。

 躯は己の容貌の変化に気付かないまま、去り際も美しい挙措で部屋を退去し、夜明けの近まる庭で「ユウスケにはけじめをとらせる」ともう一度幻海に約束した。

 見送りに寝間着のまま外に下り立っている幻海の全身をしばらく見つめたあと、躯はおっとりとほほえんだ。躯の意外なほほえみかたに幻海はふたたび虚を突かれたが、今度は動揺せず、その品の良い笑顔を受け取る。さらに躯は、幻海に向かって典雅なしぐさで手を差し伸べたが、握手をもとめかけた自分の右手の動きをなかったことのようにし、その手をそのまま障壁を広げるため空にかかげた。いまの時間帯に躯と肌を合わせれば、この結界の中でも生命力僅かな幻海は簡単にその息を引き取ってしまう。躯はそのことを失念しかけた。躯は幻海にさわりたかった。死にゆく人間がいとしかった。

 気付いたらこれが最後というのは自然だ。だが、さびしい。もう対面することはないとあらかじめ知っておいて幻海を訪れた。これほど言葉を交わす対面になると思っていなかった躯は幻海に別れを告げる今この時がなおさらさびしかった。排泄のように処理しては消え、何度もやってくる感情だ、と躯は己に言い聞かせる。さびしさにこだわればきりがなくなると躯は知っている。躯は幻海にさわるよりも、幻海がもう少しだけ生きながらえてくれることを選んだ。

 とうとう最後の風波がやってきた。風は倍音をたてて今晩で最も大きくよじれた。障壁が大きく開く最後のときだ。

「白湯がうまくて、うれしかった」そう告げて躯は幻海の眼前から永遠に消えた。

夜明け前のもっとも暗い闇にまぎれて気配を消した躯の帯の橙色がたなびいたのを幻海は見送った。

 老いの最後の一期一会に幻海は心を乱された。老婆で隠してきた自分の女の来し方が躯によって引き出されたためか。それもあるかもしれないが、そんなことではなかったと幻海は縁側に上がり、寝室に移りながら思う。

 朝がしらじらと明ければ薄れる感情だと知りつつ、夜明け前にもう一度庭を見渡した幻海は思う。宿命から外れた長命の業を怒りで消化して道中をゆくたましいの行方のやるせなさ。その存在が発する周囲を惑わす蠱惑。訪れた躯のそれが年老いて不動に近くなった幻海の心に入り込んでいた。

 躯の業がたとえばこの山に川として現出してくれれば、と幻海は思う。

「その川に寄り添ってあたしはあなたを弔おう」

 躯の道中を、死を迎える準備を始めていた自分の魂をささげて従いたいとあのとき思ってしまった。幻海の脳裏からいとけなくほころんだ躯の口元の印象が消えない。 幻海は、自分が若ければ寿命を縮めてでも躯に寄り添い、怒りをもたない力のない乙女という憑代になって躯のかわりに泣いただろうと思った。

「埒もないことだ」

と幻海はその言葉で自分の乱れた思いを縛る。そうして寝間着をとりかえ、櫛で髪を梳き、朝ぼらけのかすかな光が障子越しにさしはじめたのを認め、幻海は寝床へ入った。