2

 躯が口を閉ざして幻海をうながす顔をした。躯が何を求めてやってきたか見えない幻海は、問わず語りに身の上話めいたことを話すことにした。

「わたしは、妖怪という存在とは結局何者だろうということを老いに至る今まで考えてきました。人間について考えるより、妖怪や鬼の存在のことを頭の隅で常に考えていた様に思います。こんな風になったのは、20も近くなったころからでしょうか。

 かつて戸愚呂という妖怪がおりました。そう、ご存じですね。人間でしたが、仲間が妖怪に殺されたことを己一人で贖罪として背負い、妖怪となって私たちから姿を消した男です。でも、あの男の贖罪の裏には人間には不可能な、衰えないパワーへの希求を叶える意図もあった。わたしはそれを卑怯と感じたことを覚えていますが、いずれにせよ戸愚呂はのぞんで人間から妖怪となりました。

 そういったことが起きたこともあって、わたしはずっと妖怪について考えてきたのかもしれません。妖怪の多くは闘いへの欲求を本能としている。なぜか。まずその疑問から始まりました。

 わたしはたたかいから身を引いた後、先祖からのこの山にこもりました。まだ若かったから戸愚呂と、戸愚呂の欲望を開いてしまった妖怪のことをしばらくはずっと考えていました。

 若いころは感情が先に立ち、考えがまとまらなかった。多少の年を取ったころ、考えは整理されてきましたが、わたしに納得のいく理屈が見いだせなかった。そのまま、おりにふれ、戸愚呂が妖怪として、妖怪となったわりには粗末な愚行を重ねるのをこの山で風のうわさで聞きました。その頃には、若かった頃のようにいちいちなぜ、とは思わなくなりました」

 戸愚呂には妖怪になりながらもなりきれぬ哀切がいつまでも消えなかったと幻海は思っている。

 幻海は自分の人生と役割を相応に生きると、戸愚呂と決別した時に決めた。以降人間の体で可能な限り、自分の霊能力と格闘技に技を磨くことに専念し、己の持つ能力を必要とするもののために役立てた。幻海はそのように生きることで、人間として確実に人生を歩んできた。

 そのようなことを躯をみて、幻海は思いだし、話した。戸愚呂へ長年関心を向けていたことと、そこから始まった妖怪へのを懐疑がまだ消えないことを、幻海が他人に話したことはない。 幻海は思う。戸愚呂は、妖怪になってからは果たして、念願がかなったと思えたときはあっただろうか。

 躯は「俺は圧倒的なパワーこそが強さだとは思っていない」と述べた。

 「俺は戸愚呂も覚えている。パワーにたいして貪欲な奴だった。いや、じっさい強い人間だった。賢さもあった。だが、パワーにこだわり過ぎ、頭がたぎっていた状態だったかな。戸愚呂には実戦時、焦りによる雑さが弱点として露呈する癖があった。戸愚呂はその点が惜しかった。

 だからこそパワーでは戸愚呂が勝っていても、総合的にみてお前のほうが強者と判断していた。パワーの大小は強さをはかる尺度のひとつに過ぎない。決定的な問題ではないと俺は考えている」

 躯の講評を聞きながら、幻海は戸愚呂の人間のときの姿を思い出す。いつもそばに立っていた。ふたりにはたいそうな身長差があった。戸愚呂の顔を戸外で幻海が見上げるときは、太陽の光が眩しかった。戸愚呂もまた若い男盛りだった。

(人間には到達しえない圧倒的なパワーへの欲求があたしが恋した男のなかに巣食っていることが悲しかった。戸愚呂とあたしは、互いの気持はとっくにわかっていた)

 けれどもともに修行に没頭する日々は、尋常な恋心を吹き払う疾風怒濤だった。格闘以外は、煮炊きの時間に鍋や飲み物を回し渡す機会でもない限り、肌に触れあうこともなかった。

 さらには戸愚呂は躯への想いとは別の場所で人間の理にさからう欲望を募らせていた。そこは幻海が立ち入れる場所ではなかった。

 戸愚呂は幻海に最盛期の力の維持が不可能であることを嘆いたことがある。

「あんたが歳をとればあたしも歳をとる。それでいいじゃないか」

 若い女になり始めた幻海が、はじめて彼と向かい合って、戸愚呂に生涯寄り添う気持を伝えた。力の必衰への恐れと葛藤が心をに巣くっていた戸愚呂に幻海の言葉は届かなかった。幻海のかかわらない場所で戸愚呂は力に憧れ続けた。

 幻海はこのとき戸愚呂といずれ離れる予感を受け入れた。ふたりが見ているものが、あまりにも違うことを生来敏かった幻海は夢を見ることなく理解した。

「一切のトーナメントに参加しないとしたわたしは、霊能と格闘の指導者として年老いてゆく人間として生きてきた。配偶者は持ちませんでした。宿命としても、それが理にかなっていたのでね。

 かわりにいくたりかのおとことねんごろになったが、それは生理的な欲求を満たすためだけだった。顔も体も覚えていないおとこたちです。

 おんなとおとこがいれば、まぐわいたいと思う。わたしはその欲望を持つおんなでしたし、おとこに断られる容姿ではありませんでした。もっともわたしの欲望を満たすおとこは滅多に見つからなかったけれども。

おとこの素性はといませんでした。寝ることにそれは関係なかったから。わたしにとっておとこと寝ることは食べることよりも注意を払わない行為でした。

 複数回重ねたおとこもいましたが、そのおとこのやりかたが気に入って反芻しただけです。飽きたら自然に切れた。そのように自分の生理を処理してきました。おとこをわたしの人生の血肉にすることはなかった。

 わたしはおんなとおとこがしたいと気が合えば、時間をおかずにことを終え、互いのことを何も知らずにそれきりにするのがいいと思っています。

 そう考え、おとことのくりごとは楽しんでまいりました。」

 幻海は火鉢に炭を継いだ。熾火の橙が灯り、端に流れすうと消えてゆく。躯は、

(俺はそのような扱い方で性行為とかかわらなかった。幻海のおんなの生理にたいする姿勢はまったく健康だ。ただ、俺の場合はそうはいかなかっただけだ)

と自分の生理のありかたとその処し方をついてしばし思い致した。 幻海の老いたかんばせをみながら躯はしばらく沈黙したのち、尋ねた。

「おとことのまぐわいが単純だったのは、戸愚呂と袂を分かったこともあるのだろう」

「それもおそらく、あるかもしれません。ただ、なにしろ戸愚呂と研鑽していた頃わたしは処女でしたので、ほんとうのところはわかりません」

「そうか」

 幻海は会話が途切れたのを潮に躯に鮮やかな赤富士の碗を供した。中にはかすかに湯気の立ち上る白湯が注がれていた。選んだのではなく、ただそこにあった碗だったが、行灯のやわらかな明かりの中でもよく映えた。躯が身に着けた黒の衣服と赤富士の碗は互いの色を引き立てあっていた。 幻海はそのことに満足を覚えた。

 躯は、訪れたものにすぐに茶を出さず、よい温みになるまで待ち白湯を供する幻海の乙な自然さに好感を持った。このもてなしは今晩のありかたにふさわしいと感じた。躯は幻海に差し出された白湯を飲んだ。まさしく甘露であった。

 躯はその白湯が遠い昔人間界で飲んでいた豊かな滋味が現代の水に残っていることに驚く。この白湯の味は偶然昔の躯の記憶を呼び起こした。

(この白湯となった水はこの山の源泉に湧き出たものだろうか。あのときと同じ水だ)

 躯の脳裏に古い時代の日本の風景が像を結ばれている。

  (俺が玄夜の庵に通っていたのはにこの山はのなかだったのだろうか)

 躯は最後に食べた玄夜と名乗った老いた碁打ちの面影を白湯に落とし込んだ。

 それを三分の一ほど飲み、一息つき、躯は幻海を見つめた。

 (長く生きた俺より、この女のほうが憑物が落ちた顔をしているようじゃないか)

 躯は思い、白湯で途切れた会話を戻した。

「そうだな。ほんとうのところなど、わからないままだ」

 幻海には躯の共感を示す応答がそのまま彼女の独り言だとわかっている。

 このとき幻海は話の流れを変える必要を感じた。さきほどから気になっていたことを躯に問う。かつて幽助が北神に聞いたのと逆の問いかけだ。

「あなたは、人間を食料としていない。体臭が人間を食したものではない。食人派と云われていているはず。なぜですか」

「人間は、俺にとっては過分な栄養だからなぁ。もう必要がない」

 躯はそれ以上答えなかった。幻海は

「わたしは、霊能と格闘の家系に生まれて、幼いころから妖怪と隣り合わせの暮らしでした。あなたとは格の違う下級妖怪でしたが、彼らを身近に感じながらもわたしには正体の見定めがつかないモノたちと思っています。妖怪については、見定めがつかぬままだと思っています。妖怪とは何者と理解すれば納得するのか。こんなことがこれほど時間をかけてもわからないのはなぜでしょうか」

 幻海は躯にそう問いかけ、仄明かりの中で損なわれた半身をもつ女人の相貌の妖怪を見据えた。

「なぜだろうな」

 躯は幻海の問いに寄り添う。答えはしない。

「人間界という理の中で、人間という生き物に与えられた時間は短いからでしょうか。ほんの100年弱です。我々の生死の時間の短さなど。わからないまま私は次の時代に因果を残し、消えてゆく。妖怪であるあなたもいずれの時点で消えてゆく」

「こうして今対座していると、お前を今まで訪れなかったことが残念に思える」

 躯は静かに言った。

 幻海は因果という自分の言葉から幽助を思い出した。人前では突き放した言い方をしても、幻海にとって幽助は思い入れの深い愛弟子だ。

 その愛弟子が、出自のおおもと魔界にあったものであるとはいえ、能天気なのか大物なのかわからない態度で魔界の動向に変化を与えてしまった。幽助がその点にどれほどの考えを持っているのか幻海にはわからなかったが、幽助は魔界への自分の影響力に無自覚か、あるいは意識せず考えないようにしているかのどちらかのようには感じられた。

 無自覚と考えを回避することは似て非なる。前者であれば弟子が情けなく、後者であれば幽助の時を待つしかない。

「幽助は、残念ながらまだ魔界に及ぼした影響を考えず、この世界でのんきに日々を過ごしている状態です。変化がもたらした負担にたいして何らかの形でけじめをつけるという考えが見られないのがわたしには情けない。

 今後、幽助に変化がみられないようであればあなたや魔界の大統領が一言でもくさしてやってくれるとありがたいと思っております」

 幻海が躯にさりげなく幽助のあとを頼んだのはこのときだ。

「もうご面倒をかけていますか」

 尋ねつつ幻海が苦笑いをもらす。幻海の死期近づく人相の中で幽助への慈しみの表情がかぶさる。躯は老女のその表情を美しいと感じた。

 「俺は、ユウスケの今の状態を情けないとは思ってないよ。けじめをつけさせるにしても、まだあいつが問題に向き合うまでの時間は残っている。

 雷禅の息子だが、その類縁を抜きにして俺はユウスケを気に入っている。俺が役を終えるまでには、ユウスケにはけじめをつけさせる。魔界をシャッフルさせたことは自覚させる。もう少し待っていてやろうじゃないか。

 おまえの心は死への準備に傾けて、問題ない。その点は俺に任せてよい」

 躯は続ける。

「時代が変わってゆく。その足音は魔界も人間界も霊界も同じように響いているな」

 幻海は風の音にそれが含まれているように耳を澄まし、躯の言葉にうなずいた。