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 今晩の風の吹き方は誰かが訪れるしるしだ。幻海は先ほどから風の音を聴いている。少し昔は、このような夜を「むじなの出そうな夜」といって常人はやり過ごした。

 ふだんと同じ場所にいるのに違う場所に迷いかけている心地の心細さ。寝床に入る時分、周囲に奇妙な静けさとざわめきが入り混じる。寝入りばなに誰かの視線を感じてまんじりともできないような夜がある。「むじなの出そうな夜」とはたとえばそのような夜のことをさす。

 静流が以前この山に立ち寄ったとき今晩のような風が吹いた。

「百鬼夜行の夜だね」と静流は煙草をくわえひょうひょうと幻海の屋敷に入り、夜通し幻海のTVゲームの相手を務めて朝方に山を下りて行った。静流にはもともとの霊能と胆力があるが、さすがは魔界に入った経験のある娘とそのとき幻海は思った。普通の人間なら今晩のような夜はこの山にいることに耐えられずに気絶するか、始末が悪ければ気を狂わせる。幻海が所有権を持つこの山は元来がそういう場所だ。

 この風の音は人間界と魔界との障壁がよじれている合図であることを幻海は知っていた。幻海の耳には今日の風の吹き方がとりわけよじれて聴こえる。今夜は並でないものが現れる予感がした。幻海はさらに耳を澄ませる。

(あたしに会いに来たのは確からしい)

 幻海は襟と髪の乱れを整え、寝室から出て、応接間に端座しそれを待った。

 しばらくが経った。

「意外な客人だね」

行燈の明かりから目を離した幻海は障子の影に向かってつぶやいた。いつの間にかかつての三竦みのひとりが伴も付けずに障子の向こうに立っていた。ふだん幻海が接する妖怪とは別種類といってよい桁違いの妖気が屋敷全体を包んでいる。それでも幻海は尋ねる。

「誰かね」

 それは幻海の問いに答えず障子を開けた。襟を立てた、アオザイによく似た黒色の服に橙色の帯を合わせている。左の腰に帯あまりを垂らすことで強調された腰の稜線がまず幻海の眼に艶に映った。見上げて確かめたのは右側に特徴のある風貌で、訪れたものはやはり躯であったと幻海は思った。用件は幽助のことだろうかと幻海は考える。躯と幻海に幽助を知っているということ以外のかかわりはなかった。

 幻海を品定めするように立つ躯は、軍国の長であった名残か元帥の如き顔つきをしている。戦争という事象を批判する幻海はそれと関連する名のつくものを忌み嫌っているが、躯の精悍なそれは幻海が嫌悪する種類のものではなかった。躯が上着にあわせて身につけたパンツは限りなく黒色に近い深緑色で、すべて無地の布を使っていることが夜目にもわかる。

 この服装がアオザイに見えないのは素材に女性的な柔らかさと光沢がないことによると幻海は見た。躯が着用するとアオザイを模った衣服も元帥の貫録も相まってなおさら軍服めくのだ。素材はなかなかのもので、仕立ても上等であることはひと目でわかる。独特のセンスだが、躯は自分の持ち味を知り抜いていると幻海は感じた。

 対する躯は給仕するものが居ない際の作法正しく障子を閉め、にじり寄り、幻海の正面に用意された朱色の座布団に胡坐をかいた。

 幻海は数秒にも満たない躯の一連の挙措を清々しいものとして目にした。躯の振舞は端麗だった。幻海は還暦を過ぎてから誰にあっても平素の口調を変えない。習慣としてその姿勢を一貫させてきたが、躯は幻海が初めて見る質の力を有していた。洗練され、強靭に、太古からの時間に磨かれている躯の妖力に幻海は謙遜の念を持った。幻海は今晩を若かった頃目上に対していたように、敬意の言葉づかいをもって躯に対することにした。

「お待ちしておりました」

「よい老い方をしているな。幻海」

 躯がおもむろに語りだす。

「お前が若かったころを知っている。強さと闘いぶりの均整が取れていたお前の格闘の型は、伸びしろがあると思って覚えていた。お前が早くも隠棲生活に入ったと知ったときは残念に思った。

 つい最近だが、ユウスケからお前のしごきぶりに相当堪えた頃の話などを聞いた。最悪だったとか言いいながら、あいつ、楽しそうだったぞ。それで急にお前と話したくなった。前々から、お前とユウスケの関係は知っていたんだけれどな。

 お前の死期は近い。おそらく、お前と会うことができる最後の機会が今夜だ。

 これから施行される規則『自然な障壁の緩みを待たないと私用では人間界に来ることを禁ず』を遵守するとなると、今晩だけだ。次の機会には俺はお前に会えないだろう。」

 幻海は応じる。

「まだ幼いころからあなたの名は聞いていました。呪布をまとい姿を見せず、国土を持たず、巨大な昆虫で移動し魔界の均衡を保たせていると。姿を隠し続けているために、代わりの者が躯として生き続けているのではないかと疑われていたことも」

「そんな噂もでていたな。お前の父君も、悪くない格闘者だった。覚えている。霊力は母方の譲りだったな」

「よくお調べになられた」

「お前は素質がよかった。人間であることが惜しいくらい格闘の才があった。軍に入れとは言えない奴でも、それでも興味のあるもののことは俺は調べるさ」

 魔界の新しい規則の交付される直前の多忙にまぎれ、お前に会いに来たと躯は言った。闘い方に美を感じさせる人間の少女だった。幻海は直線的な攻撃もみせながら反撃にまわるときは受け皿の線を描くように動いた。相手の力を再攻撃に利用するために幻海は自在に体をしならせることができた。幻海の柔軟な体の使い方が躯を感心させた。わずかな時間に老婆となったかつての少女はユウスケの最初の師匠となっていた。躯は逃せない縁を感じた。

 ユウスケに聞くところによると、飛影の同胞の氷女を庇護し、飛影の人間の仲間の家族に適応させているという。生まれた家柄のため、人間界で魔界と霊界の境界を渡りながら暮らした境遇の幻海は、魔界と人間界の障壁が徐々に崩れていく様をどんな目でみつめているのだろう。語らなくても、様子を確かめたい。

 それが躯が幻海に会いに来た理由だった。