かつて緑の右目 3

 屠茂呂を殺し、居室に戻った躯は屠茂呂の汚れに染まった服を脱ぎ捨て、沐浴したあとに体の補正室に入ったのだった。躯は煙鬼が公布を出すまでの期間、実務のほかに黙々と元部下の大半を葬っていた。屠茂呂の前に百足の中にいた数百匹を殺していた。これらは躯が葬るつもりがあったのではなかった。最初は、酒や薬に溺れてもはや通常の神経ではないもの、使いものにならないものからのすがるような額突きから始まった。中毒者の最末期の者独特の、言葉にならない呻きとしぐさでしきりと何かを訴えに来た。神経が使いものにならない狂者たちの意思表示はてんでばらばらであった。が、「ムクロニコロサレタイ」という訴えであることだけはモールス信号のようによく響いた。この者たちは百足に浸かり過ぎてしまった。百足の生命力に負けた奴らだ。そんな奴らを百足の外にほうってしまうのはかんたんだった。だが、かつての躯軍において、気概をなくし、酒におぼれ色におぼれ、衰弱した部下をここにとどめおいたのは自分だと躯は意識している。何せ百足は戦い狂いの「スラム」で、そこの頭領はほかならぬ躯なのだったから。

「俺に殺されたいなら殺してやろう。」

 躯はそう言って、希望者をコロキアムに連れてゆき淡々と殺していった。その場を見たのか、聞きつけたのか、今度は「この平和統治のなかに組み込まれるくらいなら、おれをここに沈めてくださいませ。」「死ぬ。俺は戦闘種族だ。殺していただきたい」など、異口同音に躯からの死を懇願する奴等が続いた。

 ならばと躯は統治の手が伸びない辺境に行くことを提案したが、奴、奴ら直属をはじめ首を縦に振らない。

「今後はつまらない世界になる。それなら躯様に殺していただきたい。」

 結局酒と精神に負けたかつての闘い狂いと同じことを口にするのだった。

(そう言い張る奴を殺さない方が不親切というものだろうが。ここは闘い狂いの奴らにとってのスラムだからな。)躯はつぶやく。 再び殺し始める。

 しかしながら、と躯は血みどろになったコロキアムを眺めながら物思いにふける。

(今後お前等がのぞむ世界になるかどうか、俺に占わせる依存心。反吐が出る。)

 躯は百匹を殺し切るたびに腰に手をあてコロキアムの百足の皮膜でできた天井をあおぐ。

(この事態は俺が助長したものだった。こんなのを何人も運用し、最後には屠るとはな。俺も父親の害悪とさして変わらない所業を長い時間かけて行なったのか。否、見失うな。今は痴皇は関係ない。)

 躯は新たに自分の崇拝者を殺す作業に取り掛かる。部下の死に際の目の色はみな似ており、崇拝物に吸収される法悦を垂れ流していた。女であって女ではない強者に同一化してゆくことに強いオルガスムスを感じたのが察せられた。コロキアムに葬られるのが望み。躯のなかで死ぬこと。潜在的な欲望が表出した元部下が大量に現れた。躯は軍を解散させた元頭領としての役割としてその命を断った。それだけの話だ。その間、躯は作業を中断させないよう自分を律するだけであった。回顧ならあとからいくらでもできる。躯はそう考えて退屈な殺しの作業に勤めた。

 願い出る元部下も間遠になったころ、躯の居室に参上したのが、屠茂呂だった。

 

 屠茂呂は躯の足もとに額突いて語る。

「俺はずっと頭領に仕えてきました。闘いの日々だった。俺が頭領に近づいた鬼の首をへし折ったとき、そのしぶきが頭領の体にかかった。即座に膝を折って許しを乞うたが、あのときの貴女に、見とれていた。汚い血に染まった貴女は、美しかった。以来、あさがけの奇襲の太陽の綺麗を忘れられなくてここにおりました。」そう言ってから酒焼けで干からびた顔を躯に向けた。振り仰ぐようにし、心にやましいことでもあるように部下は一度下を向く。躯は相変わらず、屠茂呂にとって綺麗だった。

 躯は、こいつはやけに詩的な表現をするようになったなと思いながら聞いている。戦いの前線から外れて、百足の底で酒に遊んでいるうちにこんな言葉を覚えたのだろうか。「今後、頭領として俺の前で指揮を図られることはないのですね。」おまえが闘いの前線にいたのはいつの時代だ。躯は内心皮肉でくさしながら「そうだ」とうなずいてやる。「闘い狂いの俺がお役に立てることはもうないということです。それは俺にとって野に打ち捨てられたも野良犬同然だ。頭領、ひとつ乞いたい。・・・俺をコロキアムに沈めていただきたい。」

 躯は台座から

「今がいいのか?」と左足を組みながら問う。

屠茂呂は立ち上がり

「今。今すぐのぞみたい」と憑かれたように訴える。

 古参の衝動に躯は答えないが、コロキアムに酒で先を見失った部下を先導するべく腰を上げた。呑気な退廃は許せたが、身の程をわきまえず過去の衝動に取りつかれ、「昔の躯」に自分を殺せというのは気に入らない。屠茂呂が勝手に死相を兆したのを躯は素早く見て取っていた。落伍者に等しい直属であったが、最初期からともに火を囲み酒をあおった屠茂呂であった。時代は変わったが、他でもない屠茂呂の狂気の落ちぶれを完結させるのが自分であることに躯はしらけた。

 かつての屠茂呂がみせた真剣勝負は実現されない。殺されに来たのだから。躯が見たい、生きることをかけた先に見える火花が、見えない。コロキアムで対峙する。立会人は不要の殺戮である。屠茂呂が陶然としながらも自分の歴史を打ち据え決別するのと同様の行為に取り掛かろうとしているなか、躯は執行人として冷静に屠茂呂をどういう流れでこと切れさせるのがもっとも決別にかなっているのか、これからの縊り方を冷静に検討し、ことを進めた。屠茂呂がこと切れる時間さえも勘定に入れて。躯はかれがかつて得意としていた肉弾戦に誘い込み、ゆっくりといびり殺した。5時間ほどもかけて首の骨を片手でおってやる。足はちぎれてさっきから鮮血を躯の足下を真っ赤に散らしている。

(格別に目にかけていた野郎ではなかった。でも、長くこいつをここに置いていたのは俺だ)

 躯は思う。長すぎるほど長く、闘い狂いのスラムに酒とともに溺れて行った屠茂呂を躯は直属の下位に置きながらも見捨てていた。その事実とともに最初期からの手下の亡骸を処分したことで一連の殺しの作業に区切りが見えた気がした。

(これで終いだ。あとは、勝手にしろ)

 沐浴室にいる間、獣として弱ってゆく屠茂呂の瞳を思い出しながら過去の部下の幻影を浮かべていた。ある時期まで、屠茂呂が俺のもとで闘うことに喜びを見出し、どのように闘い狂いの生を俺の元で選び、燃焼させようと専心してきたかも知っている。そのあとその精神を放棄して弱っていったようすもみてきた。そんな兵隊は百足の中にはごまんとおり、頭領として躯はこのスラムを傍観してきた。

 躯は右目を手で覆い、左目を閉じてみた。屠茂呂の殺されることを望む欲望をトレースしてみる。潔くはないが、心を揺さぶる弱さを内包する。これは、なんだろう。

 「闘い狂い」として百足のなかに葬られたいという気持はいっけんすると純粋なもののようだが、躯には気に喰わない願望だ。最初期からいた、生粋のかつての闘い狂いは恐怖の後に恍惚としたまなざしを向けて事切れた。 「あなたの、髪の毛が、綺麗で」朝陽に透けたのだろう、躯の頭上にまなざしをむけ、その瞳孔は開いた。(あいつの快楽に付き合ってやるほど俺はお人好しじゃねえ。) 躯はそう思いながらコロキアムで百足の養分となるという古参の望みに付き合ったのだ。

 ―医療ポッドでこいつらを瀕死から幾度もよみがえらせた。駒としてこいつらの生命の権利は俺が握った―

 屠茂呂の勝手なオルガスムスの姿を反芻して、躯にはひらめくものがあった。

 生きたいのどうのという願望はともかく、俺がなんで戦ってきたか?簡単だ。火花が見たかったからだ。俺は闘いの中で一対一がとりわけ好きだった。

 かつて、その火花を追いかけていたらいつの間にか野郎どもが集った。野郎どもが勝手な流儀で断りもなく「頭領」と呼び始めてそして、躯はそれに乗じてすべてを火に払って百足の中を自らの領土としていたのだ。その結果がさっきの死に際の光景か。躯は改めてしらける。過渡期の百足の中に漂うのは一方的な忘我の快楽の臭気。

 奴らは次にやってくる変化の波を無意識に懼れている。そしてすっかり弱ってしまった。そして今朝、とうとうかつての闘い狂いの鉄砲玉屠茂呂がそれを願いいで、躯は屠茂呂を望みどおりにコロキアムの骨血肉の地面に埋めた。酒に負け、ゆっくりと衰弱していった古参の直属、闘い狂い。スラムという百足の1つの側面をまさに過去へと消し去った。 その前の、数百匹に及ぶ元部下の弔いの作業には臭みを感じこそすれ、郷愁も索漠とした感情も伴わなかったのだが。みな勝手に死んでいく。

 奇淋はわざわざ戻ってきたが、殺してくれとは言ってこない。躯は奇淋には無頓着だ。

(奇淋は何があっても変わらない覚悟を決めたようだが、なに、もう俺の勝ちは決まりつつある。躯という俺の威信の時代の終わりだ。俺は抜け出す布石を打っている。着々とな。) 躯は奇淋の愛してやまぬその唇に不敵な笑みを浮かべた。

 躯はこの部屋では裸身のままでいる。ステンレスの壁の前で胡坐を組み直し、左の腰から括れた横腹、小ぶりな胸の揺らぎ、脇のくぼみから肩甲骨の脇の美事な曲線を見せる格好で両の指を頭頂部の上でからめ、両腕を天井に向けて伸ばした。二の腕にブロンドがかったニュアンスのコッパ―色の髪が触れる。自らの髪の感触に、官能的なくすぐったさを感じて躯は身をよじって少し微笑い、めずらしくヌードベージュの唇に赤みがさした。

 そのまま、あどけない表情と姿態のまま躯は長い思案の時間に入る。今、躯が思いめぐらしていることは、この時点では哉無にも誰にも察しがつかなかいことであった。

 

 沐浴台の壁に飛影の探していたそれはある。

 哉無に電信したとおり2日間躯はひとりで電磁波を揺籃としていた。寝室に帰ろうとして、仕切り間の思い灰色の布に手を懸けようとしたその刹那、強い眼の気配を感じた。仕切り布は躯の手により揺らされず、乱暴に横の壁にたわめられた。布はかろうじて破れなかったがカギザギを残した。漆黒に光ってひたむきを絞り出す少年がやにわに躯に手を伸ばす。

 まっすぐにその手が裸体の躯の腰を拘束する。きつくきつく。躯の傷でわずかに平らなほうの胸に左の耳を押し当て、横からかのじょの乳房に顔を深く納める。下半身の拘束は闘いを挑んでいるかのように苛烈なのに、乳房に黒髪の頭をうずめているようすは自分をただ幼児のように求めていた

「どこに行ってた、貴様」変わらず短い言葉で挑んでくる。ただ言葉の鋭さと裏腹に固く拘束する飛影の握力に。

(しがみつかれているんだな。)

躯は理解した。

 こういうとき、躯はしがみつく相手にどうふるまうのがよいのかを知らない。ただ、飛影相手なら抱え込もうと思った。そう思ったのが先か、後か、わかるわけもないが、かれの額に後頭部に掌を当て気を補充させ、軽く飛影のくるぶしをかかとで刈って寝台に2人で滑り込む。飛影は離れもしないし応戦もしない。不安と安心感がないまぜになっている表情をみて、躯は、何かしてはいけないことをしたのだ、と思い当たる。

 胸の柔らかさに探していたものを取り戻そうとしている飛影の邪魔をしないように、ややあってから、少年の呼吸を見計らい、躯はあらためて飛影の頭をそっと抱え込んだ。

 色彩のない躯の居室の中に例えるなら夕日の橙色がこもった。これは躯という女が発する、圧だ。躯は自分が圧を発していることに気付かなかったが飛影は閉じた目からも感知していた。

―闘う時ではなくても出るものなのか―

飛影はかすかに驚きながら、今自分を包む躯の圧が、胎児の記憶として残っている氷女の母の羊水のたゆたいとひどく似ていることに気づく。

(氷女の母の中にいたころ、冷たくて熱い母の喜怒哀楽が羊水を通じていつも俺に届いていた。オレが胎児の頃感じた屈託を、雪菜も感じていたろうか。)

 躯の橙のなかで同胞の雪菜の面影を思う。芯の強い儚い同胞の可憐な笑顔がよぎる。雪菜が幸福ならいい。オレは、この橙がいい。脆い、気まぐれに強い、この狡い、爛れた女がいい。

―この女がいなくなったら、オレは、どうなる。―

しばらくのあと、

「飛影、俺の居場所、知らなかったのか」 と躯が問う。

「躯、伝えたことがあったか」 じっと乳房をもてあそびながら飛影は問い返す。

 哉無も奇淋も、俺の定期的な不在の理由を伝えればいいものを、まだ新人扱いか。躯のこの見立ては、滑稽にも的を外れている。哉無の気まぐれな嫉妬と、奇淋の寡黙をよそおった秘密の保持がかの飛影をして人知れず悄然と2日間、躯を求めて百足の中を探し続けさせたのだ。もちろん過渡期の騒然とした雰囲気の百足にあって、そのような飛影の気配は目立つものではなかったし、飛影にも意地がある。それとはまったく悟られなかったが。

「肉から赤筋の部分が減ったな。」

 躯は無言で拒絶の顔つきをする。飛影が躯の筋肉の質について指摘するときは、その気もない食糧を補給されることが主だからだ。

「今それより俺は寝ていたい。飛影がいても構わないが」

ひとりで泥のように眠りたい。更に何か言いつのる気色の飛影を制し、食わないぜ、そんな顔をして彼から視線を外すと少年はため息をついた。

「俺の部屋に来い。かんたんな炒め物でも作ってやる。ここに運んでやろうが貴様、どうせ手も付けんだろう。」承諾しない躯の顔つきに、飛影は重ねて

「来い」

と言った。

「いや、横になっていてえんだ」

 まんざら方便でもない様子で断る躯になお「用意しておくぞ」と強く言い捨て、飛影は躯の居室を仕切り布の風を立てて出て行った。バタン、と居室のほうの鉄扉の音がして飛影の気配が薄くなる。躯は食欲と眠ることのバランスを保つ飛影に憧れともつかぬ疎ましさを感じた。氷女の双生児の男という出自の重み、母なるルーツを探し続けたこの少年は、経過年数が少ないから恨みやよどみが俺のように発酵していないのだろうか。

 (あぁ、俺は飛影が憎いかもしれねえ)

 しわぶくような一言を我知らずもらすと、躯に再び眠気がやってきた。裸のまま、飛影の不在で余ったで灰色の毛布のきれをたぐりよせ、あらためてくるまり、飛影の残り香をかぎながらとろとろと眠りに落ちた。飛影の勧めにもとより応じる気はなく、不眠気味の躯にはこの生の中で何度あるかわからない、次の展開に備えるための繭にくるまれたかのごとくの眠りについた。

 やがて鉄扉の音が大きな音をたてて開き、その反響音とともにごま油と菜の香りの湯気が漂った。クコを散らした白菜と豆腐のあんかけに黍と松の実スープ、雑穀の炊いたものを檜の櫃に、少量の粥をアルマイトの鍋に入れた籠を肩に担いで飛影が居室にやってきたのだが、その物音にも目を覚まさずに躯は眠り続けていた。

 飛影はカーテンを揺らして再び躯の寝室に入る。躯が自分の居室を訪れないことはだいたい察しがついていた。躯がいつになく幸福そうに寝入っているのをみつめて、飛影の心も痴呆のような幸福感に占められた。探し続けた躯が無防備に眠りこんでいるのだ。触れて、起こし、食事を促し、嫌がるのであれば食べ物を口に入れてやりたい。そう思いながら躯の寝姿から目を話さず籠を持ったまま寝台に腰をかけたとき、得体のしれない不安が飛影の胸をばさりと音をたててよぎった。灰色の毛布がはだけて、躯の左の鎖骨から肩がむき出しになり、よくよく見れば躯ひとりの姿はいかにも寒々しかった。

 飛影は籠を寝台の横の作り付けの桜木製の食台に置き、寝台に滑り込み、自らの右腕の黒龍のように自身の身体を躯に巻きつけた。