かつて緑の右目 1

 右目の視界が不正確になってきたので、自分の体を補正する部屋にしばらく閉じこもることにした。俺の寝台のある奥の間には単純なからくりがあって、沐浴台のある個所の百足の肉壁を俺の義手で精確に切り込む。と、にわかに女の陰部の形に見えなくもない形状で襞ができる。これがぱっくりと口をあけて俺を迎え入れる。ひだに覆われる格好で入室するとまた猥雑な素材は変質する。俺の好むステンレスへと。

 百足の素材と対照的なステンレスのドアを後ろ手に撫で、閉め切って息を吐く。ここにいる間は筆頭や哉無も俺を訪れない。 ここには体の補修にかかわるものの他は一切置かない。補修以外する事のないスペースであるからして、俺は自分の体の補修にだけ没頭する。執務室の裏にある寝室より、金属機械が設置された部屋のほうが俺に完全な休息を提供する。

 百足には医療ポッド設備がある。金属に頼らない、命をはぐくむ人間の人体にかなり近い有機物からなる身体蘇生装置だ。これは俺の専売特許で門外不出といっていい、といっても最先端の、という意味ではない。もっとサブカル的趣味を指す意味で――だ。有用ではない。汎用化するにはコストもスペースもかかりすぎるからだ。俺が作り出した設備で、このポッドにつけた日にはどんな瀕死状態のものも元のベストコンディションに戻ってしまう。不老不死を即物的に実現する装置である。

 軍規に適応でき、かつ使いやすい兵隊を維持することはかつて並みの作業ではなかった。有能な部下が不都合なことに寿命が短い種族であればこれで延命させたし、こと切れたものも回収後修錬道具として有用だと判断すれば治療ポッドに入れて部下の質を維持していた。まるで製品のロットをそろえるかのように。

 俺自身が率先してなぜ治療ポッドに入らないのかと、直属のものがたまに俺に直接聞きにやってきて、俺は必要を感じないからだとしか答えないが、この体は俺の誇りだ。飛影には、あいつが聞いてくる前に伝えた。

―その石が なければこの体は まだ 憎悪の象徴でしかなく戦闘は その発散の手段のままだっただろう―

果たしてそうだったか?

ところで、俺の体は金属と縁がきれない。今では金属まじりのこの体に自分でも滑稽なほどこだわっている。遠い昔、筆頭をミンチにしたのを部下は俺のエピソードとして語り草にしているらしいが、あれは俺にポッドに入るようにそいつが進言したからだ。すでに名前も忘れたが、野郎にとって運が悪かったことは、進言した日が俺の誕生日だったことだ。本当に、運の悪い野郎だった。

 あの当時の筆頭はそんな事情を知らなかった。頭領の戦闘能力がバランスよく再度飛躍する可能性の一助になるのではないかという忠誠心からの提案だった。それがわかる程度の信は置いていた。

 しかしながら心根は知っていても、瞬間的な怒りは憑依によく似ているために。私を外へ連れ出してくれた痴皇お父様の欲情していない「父」の顔が浮かんだのだ。その顔が次には欲情した豚の「父」に変わっていた。ここにいるのは無敵の身体を誇る俺なのに、自分の体の中をいじられている幼児の不確かな記憶に足もとから固まった。

 どちらが本当?どちらも本当、ならば余計憎い。筆頭を見ず、妄想で出現させた父を見て、裏腹の記憶の恥辱で目の前がガランス色に染まった。気づいて、後に残るは完璧なミンチ。直属たちがひくりとも動かずにミンチが百足の壁に吸収されていくのをみていた。

 恐怖政治ではない。これは俺のヒステリーだ。いきなり殺された忠実な筆頭が気の毒という見方もあるが、それを口に出すのは居合わせていない哉無くらいのものである。

 「俺のもとにいて、俺の体について口を出すとはこの軍に不要。」軍規を乱したかどで、と告げて周囲で唖然とする部下にはミンチにした理由をそれ以上問わせなかった。筆頭は、あのとき「父」のような誠実そのものの顔をしていた。俺の戦闘能力と身体のアンバランスを真摯に気遣うだけの、ほんものの誠実。それが、いけなかった。

 俺は医療ポッドを起動させたときから医療ポッドには終生入らないことに決めていた。ポッドに入れば、体は元通りになる。脚はつながり、肌も蘇生する。眼球も戻る。神経器官も戻るのだ。

銀色に輝く金属で改造される記憶があるのは痴皇が玩具の娘に俺に反逆心と思慕を駆り立てるオプションで付け加えた苦痛の記憶なのか。ほんとうに覚えている記憶だったのだろうか。

 この事実を知ることを俺はすでにあきらめている。今さら痴皇を捕えてかつて俺が大嫌いで俺の定位置だった段腹を蹴り上げても、何も出てこないのはわかっている。きっとあいつは覚えていないにちがいない。俺はたった7年の娘だった。テクノロジーの力を借りた原始的な分娩台で生まれた。

 ここは父親への怒りと嫌悪感のなかで産声をあげた当時の再現だ。部屋の中のすべてのスイッチをオンにして機材を起動させる。妖怪でも人間でも自然のなかに身を落ち着かせてくつろぐというものがいるが、不自然の力を借り、生まれた俺が安らぐポイントはこれらしい。

 痴皇。お父様はこの俺の右の目がただれた瞬間、ごみを扱うように俺を捨てた。虐待と愛撫のジェットコースターの日々が生まれてから続いた。その日々から脱出をはかろうとした。さらに、できるならばお父様の興を買うやり方で、エクソダスしようと。

 7歳になんなんとしていた俺は玩具としては心をよく育てられていたと思う。お父様の薄情で刹那的な好奇心を7歳の祝杯をあげる脱出の夜に満たしたかったのだ。計算を誤ったのは私だった。お父様はそういう遊びを私に求めていらっしゃらなかった。

 俺は暴力的な性愛の応酬の中で、興をそぐのではなく、自分を傷つけることが褒美となり笑われ見捨てられると思っていたのだ。

 だってそうだろう。殴れば喜び、反抗すれば自然にペニスをおったて、意に沿わないことをすればするほど興奮して俺を拘束した。それならば顔に酸をかければ面白がって俺を捨てるだろう、と思わないか?思わないか。当時、俺は、7歳なりに、そんな円満な脱出のためのシナリオを描いていた。見当違いを笑うなら笑え。

 捨てられたときの有様は飛影に伝えたような簡潔な決別の感情を伴わなかった。邸を出た直後の時間を、俺は今でも口にできない。飛影には「興を殺ぐため」「今日からが本当の人生の始まり」と電信したが、その言葉は、嘘だ。今ならわかる。気づいている。少なくとも正確ではない。

 捨てられて次に海岸の洞で目覚めたときの感情は、エクソダスを遂げた覇気ある恨みではなく、体が腐敗する恐怖と、痴皇への恋慕だったのだから。

痴皇様、というのは娘の私にそんなに情がなかったということを知って洞のなかで哭いた。海風が体中に沁みて何も考えられない。体も動かせない、というのに。

俺があいつの興味を殺ぐために、かぶった酸だったが、それを痴皇のあの目つきで知ったとき、自分を恥じたことも思いだし、洞の石を握って岩に打ち付け、自分の体をさらにえぐった。

 痴皇は俺の「お母さま」を「愛して」いたのかもしれない。俺が痴皇のもとを脱出することを実行することを決めたのも、―今度はお前を畑に、新しく娘を作ろうねぇ、お前も7つだ。娘と、娘でお父さんをもっと愛しておくれ。― と俺を中心に嵌めながら命令したからだ。まっぴらだった。…お父様は私では足りないの?

 そう、痴皇は俺だけでは足りなかったのだった。「お母さま」と同じ面差し体つきの娘が、どんどん、どんどん、必要だったのだ。それも遊びの一環として。

 幼児の体力ながら痴皇の求めに必死に応戦した、7年の日々。俺には遊びなどではなかった。華奢な体で不遜に振る舞い、殴り、反抗しながら侍ることを求められ愛を得るために無邪気に必死に応じた。ことに痴皇の夜の求めこそが侍りものがにやけた表情でささやく「親心」「愛情」というものなのだと額面通りに受け取っていたのだ。

―それになにしろ、私のお父様は、日中はお仕事のストレスを抱えていらっしゃるもの。―

 愛だと、愛だと愛だと。

 豚の如きペニスや脇の汗を無表情に見据えながら舐めて差し上げた。

 愛だと思った行為は、虐待のダスト扱いで、途切れた。

 生ごみよりもひどい放り投げ方で館の外に出、海岸の洞で体をかきむしっていた俺はそれからしばらく記憶が無い。玩具の娘として扱うからそのルールにのっとって立ち向かったのに。相手にしてくださらなかったのが俺のお痴皇お父様。お父様は最後にはお父様の役割を放棄した。ああ。ルールの読み間違いで役割を放棄したと思われたのは7歳の俺のほうだったのだ。

 趣味と実益を兼ねて成功した嗜虐趣味で即物的な商人は、いっときの楽しみごとのために作った娘のことなど、覚えていないに違いない。0歳児を自分に向いた玩具にするために、柔らかい肌に楽しそうに金属を入れたことも、ほかの玩具奴隷の群れにまぎれて忘れているはずなのだ。すべての面において痴皇という父は無邪気なほど薄情な男だった。かつての娘が躯であることも知らないに違いない。殺しに行こうとすれば殺しに行けるのに、殺しに行けない記憶に縛られる。

 ここまで待って、やっと部屋の温度が上昇を始め、各種設備が立ち上がり始める。膝の力が抜ける蛍光色の照明がつき、ほどなく、ピ。ブウン、カシャ、ジ、…と部屋のほうぼうで機器が電磁波でざわめきはじめた。この微妙な振動。ゆりかごのようで俺は壁に手をついて目を閉じる。ステンレスの壁の冷たさと俺の平常時の体温の比較。今日の俺の体温は少し高い。上部に取り付けたモニタをななめ下に動かし、各数値を確認する。神経系組織も、体液の成分も、すべて良好。今日の体調は、神経系のおおがかりな補修に絶好。ついでに2日ほどこもろうか、と、壁にかかった通信機で哉無に「籠二日返信不要」と打ち込む。

 返信不要。せめて情報伝達には高速回線を。半端にレトロなのはいかがなものか、と奇淋も哉無もよく進言してきた。情報の肝はこういったラジオレベルがいちばん頑丈で、敵からの操作影響も受けにくい。なにしろ精密でないぶん壊れない。この情報伝達機能についての考え方はじつは俺が国として領土を定めなかった方針と同じものなのだから、情報通信について改善を求められるのは不服である。戦闘意欲のある直属は、誰もこの方針を是としないだろうが。