かつて緑の右目 2

 俺は鏡代わりになるステンレス壁の前に仁王立ちになった。しばらくその立ち姿を凝視する。俺の腹や損なわれないほうの膚は白い。雪花石膏より上等、血の通った白翡翠と言って夜毎に撫でまわされていたことを思い出す。

 あれから骨組みも変わり、逞しい体つきを手に入れたのに、この膚色だけは失われない。呪いのような、忘れたくない、―そう、俺は確かに忘れたくないのだ。手放したくないのだ―虐待のよすがのような膚色も、ケロイドも同様に俺は仔細に点検する。ケロイドがいつまでもピンク色なのも、呪いのようだ。白翡翠に無残な斜線でピンクが走り込み、機械仕掛けの人型の姿の自分を今日はよくよく眺めてみる。7歳の飼われた娘として選択し、体を溶かしてから、時間をかけて俺が意志的に不完全なサイボーグにデザインした、体の点検だ。

前後左右を確認した後、俺はしゃがみこみ、あぐらをかいて自分を不躾に視姦する。壁一面の全身鏡と手鏡台の拡大鏡を用いて自身の体を子細に点検する俺を、もう一人の俺が観察している。

 さきほどから、左耳よりこだまするのだ。同じ問いが何度も。

―飛影に告げたことは、本心か?―

昔の魔界を見せてやる、というのは新しい直属にすべからくかける台詞だ。

しかし生きろ、と呼び掛けたのは飛影以外におらない。直属やほかの兵隊には生きながらえて役割を全うさせる命令なのだから。

「お前はまだ死を求めるほど強くない」だから生きろ、と俺はあのとき飛影の前で言った。俺のこの体は今では「誇り」だとも。じっさいそう思ってこの生を、半ば呪いながら怒りながら長らえてきた。それは事実だったが、飛影と言葉やそのほかできる限りのものをやり取りしている今、あの言葉に翳が差しているのがわかる。飛影が、おそらく俺より鋭くその事実をすでに切り取っているであろうことも。おそらく、だが。

 心が死に向かっている飛影の意識に入り込んだとき、オレは自分の過去と体の傷を認識してあいつに対峙した。しかし本心の言葉は晒さなかった。意識に触れ合えた高揚感に取り込まれて、あのとき飛影に電信し、ポッド越しに口にした言葉などあてない口説き文句にすぎなかった。

 あのあと、とりわけこのことについて飛影と話をしてはいないが、あとから

「あれは、意識の強姦だ」と渋い顔をして評されたことを思い出す。 強姦。俺が嫌いで俺を強くしていったもの。

 続けて右足の化石のような大陰唇をめくり、小型式点灯で陰部を子細に点検しながら頭に浮かぶのはポッドで揺らめいていた飛影の姿だ。疎ましいことに小陰唇との狭間は肉の色が生きていて、未だうるおっているのだ。使い物にならないのは片側の大陰唇の一部とその周辺だけで、ちょうど、めくるべき谷間の底、右の部分に、かすかな、生黒子がある。俺はその黒子が嫌いだ。

 「お前のお母さまにもここにほくろがあって…」痴皇は俺のそこに舌に力を入れ、つつくのを好んだ。周りの侍りものから嘲笑の空気、憐憫の空気、倦怠の空気を感じながら俺はお父様の頭頂にかかとを落とした。そしてお父様は嬉しそうに笑い私の中をかき回す。

 あの黒子への執着を察するに、痴皇は、ほんとうに「お母様」の姿形に執着していたのかもしれない、と思う。また目の前が赤色に染まる。このガランスの色は誰と分かち合う種類のものではない。昔はこの色の力を糧に戦い、目のお前の相手を殺し、生き延びてきたが。自分の鼓動で部屋の検診音も変わる。誰にも見ることを許さぬこの姿だ。見られて恥ずかしい個所などとっくにない。また、感情の揺れを見られてもなんら困ることはない。俺がここにいるのは、他者からの視線を拒む意思だ。このガランスは。視界の異常ではないことは、俺も知っている。

 そこまで辛抱強く考え抜いた瞬間、かっと体温が上昇した。後ろでステンレスがひしゃげたのがわかった。道理にかなっていない、この感情とともに俺はずっと生きている。

 医療用飲用水をステンレスタンブラーで幾度も飲み干し、気を落ち着け、やっと右目の視神経の修復にとりかかる。視界の範囲を広げ、縮小し、それを繰り返しては体を動かし正常な左目との均衡をはかる。干からびた自らの眼球をはめこみ、簡単に先の点検を繰り返し、モニタの反応を最終段階として確認して、この籠りのきっかけとなった右目の修正は終了した。

 モニタの波線の光る緑色、かつて自分が両目とも緑の色をしていたことを思い出す。痴皇だけでなく、侍りものも使用人も口には出さずにこの瞳の色を賛美していたのを知っている。子どもの驕慢な自尊心を満足させるには十分なほどの。

 俺の好きな飛影の目は赤色だ。精確には暗赤色だ。太陽光ではたいした魅力もないが、夜の闇に眼を凝らしているときなど貴婦人が殺意を砥いでいる風情の薔薇を想起させる。飛影の瞳の暗い深紅は俺のガランスを忘れさせる。敵であれば飛影の目はくりぬいて石代わりに鑑賞したかもしれない。氷泪石と並べてご対面でもさせたことだろう。

―なぜ飛影に生きろと声をかけた?―

また左耳に声がよぎる。俺は生も死も求めない奴を有無を言わさず生かした。頭領として当然の権利だが、なぜ、飛影には「生きろ」と?

 俺は、今もこのように自分の体を補修しながら生きている。

なぜ体を補修するのか、ポッドに入らずに?なぜ生きようとするのか?

雷禅がくたばって、三竦みの均衡が崩れ子供だましのトーナメントで魔界の情勢が変わった今も?体を補修していることに空しさが伴わないのは、自分らが巻き起こせずにいた魔界の変化を見届けたい気持ちからだろうか。

それよりも…生きる目的を見失い、じっさい喪ってゆく飛影に「生きろ」と伝えたのは、なぜだったか。じつは今もって分からないでいる。

 

 もう一度、今度は点検のためではなく正常な左目の瞳孔を確認するために小型式点灯で両目を光にさらす。右の、かつては緑だった眼球を、俺は痴皇に打ち捨てられた時からずっと捨てなかった。義眼をさまざまに取り換えて遊んだ時期もあったが、この生まれ持ってきた干からびた眼球を現在はわざわざその都度嵌め直している。

 俺のこの右の眼球は、宦官であった哉無の陰茎のようなものだろうか。哉無の切断された陰茎は、きっと哉無自身が人の目に触れないところで壺に収めているはずだ。哉無は自分から進んで宦官になった経緯は聞いたことがあるが、陰茎を誰に切断されたのか、あるいは自分で歯を食いしばり処置を施したのか、詮索はしなかった。あいつも語らなかった。あいつが死んだら、だれが棺桶にそれをあいつのもとの位置に戻すというのだろうか。そもそもあいつの故郷はすでに滅び去ったのではないか。俺が焼き打ちをしたときに。そういえばその壺を俺は一度だけ見たことがある。俺があいつの勤める屋敷を焼き尽くしたとき、顔についた煤などないように澄ました顔で

「これを持ってくることができました」

といった後、大胆な手さばきで衣服の裾を割り腹にその壺を収め、俺と一緒に走り出した。 俺は宦官のその流儀とその大切さを知っているからほっとして

「それは、よかったな」

と言った。

 俺の言葉に頷いたあいつはあのときすごく愉快そうだった。そして初めて口をあけて笑った。キツネみたいな細面だとしか思えなかった白いあのつらが、晴れ間が差すように笑ったとき、確かになにかが香り立つように光って俺の目を引き付けたことを思い出した。あ、こいつは確かに周囲が「蘭のかんばせ」としてもてはやし、主人に寵愛され、じっさい主人と周囲を籠絡するにたりる容貌の持ち主であることに自分が仕掛けた火事場の中で呑気に納得した。

 あいつも老けて、かつてのかんばせの魅力をもう長く見せない。俺も老けた。見た目は互いにいっけん変わらないのだが。こう着状態で、哉無とは老けてゆくのをお互いに黙ってみている様子だった。そう思っていたが、ここしばらくの急激な情勢変化であいつの顔に昔の精気がよみがえったようだ。

 それを本人に茶を喫しながら伝えたら「あなた様こそ。鏡をみてごらん」と例の癇に障る速度の遅い笑顔で返されたからしゃくにさわる。憮然としつつこいつが軽口をたたきたくなる気持ちもわかるので捨てるように笑った。まるで老隠居同士の会話。事実俺たちの世代はそろそろ去ぬべきときがきたようだ。そして、哉無が用意する茶と香は絶妙の頃合いだ。俺の気分と湿度を見計らうように焚きこめて待っている。

 哉無との関係も、組織を統率するものと運営するものの仮面に飽きあっていたが、このたびのことがあってから、昔の出会い始めの気安さが蘇るいっときがあった。一時休戦の態。ずっと休戦でいい。次のトーナメントなど、もうないだろうしこれからの戦いに期待するものはない。ふぬけになったといわれても構わない。国だか軍がか言われた集団は解散して、俺はただの躯になった。そうして出てきたのが、この回答だ。

 俺はうずくまり、生身のほうの足の指を切り出す。小指は戦闘の繰り返しでひしゃげている。ほかの壊れた部位がきちんと修繕している分だけ、無慙にみえた。もっとも、これをみるのは哉無と飛影のみだ。あるときだったか、飛影がそこを執拗に舐ったことがあった。くすぐったくて、俺は笑った。身をそりかえして飛影が動き出す前に、同じ部位を強くつまみ、黒龍波の跡を上から下に舐めてみた。くすぐったそうに、笑って、あらためてもつれあった。声を立てて。

(俺の性的な事柄はたいてい衆人環視の中で行われた。あるいは、金が絡んだ。飛影のとだけ、そうじゃない。しかも、なんの技巧も要しない。)

 哉無の性はどうだったのだろうか。それよりも、彼奴の死後、陰茎の納まり方が最近気になる。誰の手にも触れさせたくないはずだ。遠い昔、あの風習は「親族」が死体に切断した陰茎を取り付けることで完了した。

 中央層の権力者のもとにいたときは、哉無も陰茎をもとに戻す役をになうはずの親族と連絡を取っていただろうが。一度この世で外したそれを、自分で管理するよりほかなく、死後の儀式は行われないのだからこの世では役に立たないそれをあのとき焼き捨てて来ても良かっただろうに。やはり、哉無にとって切り離した陰茎は、かつて緑色の虹彩をもって称美された俺の右の眼球と同じなのだろう。

 焼ける邸からそれを持って出てきたとは、はしゃいでいるといってよいほど軽やかに、哉無は俺と並走した。意外だった。あの時の哉無の振る舞いは、俺に見せた数少ない、感情をむき出しにしたものだったから。あいつは俺を宦官特有のまなざしで観察するばかりで、本音を見せない。昔から今に至るまでそれは同じだ。

 宦官の様式で軍では直属4番手として仕えていたが、俺と哉無との関係なぞ、もとをただせば厄障者と宦官の、よくある裏取引の相手先だっただけだ(しかし俺は哉無にここに火をつけることはあらかじめ告げていた)。にもかかわらず哉無は、俺が焼き払った大人の邸を含む領土一帯に炎を放ったあの日、そこに自分の親族等が暮らしていたというのに、得も言われぬ、晴れ晴れとした表情で俺と走ったのだった。中央層の人間は「親族の紐帯」を重要視して生活すると聞いていたから、一緒に走り出したときまで、まさか本気で哉無が共謀の提案に乗ったことが信じられなかった。寸前まで哉無に寝返られた時の代替作戦を用意しておいたのだが無用になった。哉無は笑っていた。

 しばらく、(いつ殺されるか)と警戒していたが、そのまま今日まで哉無とは来ている。俺たちは、俺が用心棒として大人邸の勝手口に立ち、哉無は雑用のついでとばかりに俺と並んでさりげなく裏の談合を進めているときも、互いに自分の話をしなかった。だから、「恨みはないのか。寝首をかこうと思わないのか」と、俺は聞かなかった。

 哉無の仕える大人の領土を焼き払い、軍を統率することにしてからは「あなたへは今後側近としてあたしの流儀で仕えますから」と言い、勝手に百足の生活様式を中央層のものに統一していた。哉無は来し方行く末をどう考えているのか。知りようがない。俺好みの茶と香の用意をしてくれ、足を洗い、衣服の世話をするだけの、かつての躯軍の財務掛である。じっしつそれは軍が解散した後も変わらない。

 哉無がそこに何をつけていようといまいとそれは人目に触れないが、眼球は人目に触れる。いっとき、俺は義眼がわりに様々なものを埋めるのに熱中していた時期がある。今よりまだふざける遊び心を持っていた俺は、右の眼球にいろいろな石材の義眼を入れ替えて面白がっていた。

 ある夜、紫に黄色、サイケなマーブル模様の、しかし石としては非常な貴種の義眼を入れて酒盛りの座に腰を据えたときは、屠茂呂は「それはさすがに悪趣味だ。」と太くて四方八方に伸びた眉毛を情けなく下げて俺の小さな奇行を悲しんだ。

 その屠茂呂を昨夜から明け方にかけてゆっくりと殺した。このとき視界の不具合に気付き、ここにいるわけだが。自分のふくらはぎに付着していた血を見つけ、手もとにあった医療塵紙でにべなくぬぐう。ぬぐってから(屠茂呂の血か)と先ほどまでの出来事とこの血の連関に気づく。

 屠茂呂という男は肉体技を非常に得意としており、軍が存続していた時は直属として足軽の統括役を担っていた。遠い昔、躯軍にあって際立って勇名をとどろかせていた屠茂呂だが今は見る影もない。酒に溺れすぎたのだ。その点では俺も変わりないが…。時間としては哉無より長いつきあいの、こいつが軍の最後期には直属の下位にやっとひっかかっていた状態だったのを俺は黙ってみていた。

 まだシノギ先をみつけるのに苦労していた頃の俺に飛びかかってきた奴のうちの1人だった。初めて向き合ったとき、俺は屠茂呂を縊り殺す寸前でえんえんといたぶった。そうして恐怖感を植え付けておいて逃げさせてやったらじきに野営にやってくるようになり、これは俺のもくろみ通りだった。屠茂呂の事をを頭は悪いが典型的な先兵役を担える鉄火男だとみたからだ。いずれ俺のもとに来ることはわかっていた。だから野営での酒盛りに入りたがる屠茂呂を止めず、好きな場所にいさせ、戦いがあれば鬨の声を挙げさせた。以降、シノギのことで意見があわないこともあったが、軍が組織化する前は毎晩、火を焚いて酒をかっくらい、無謀な勢いを共有した。屠茂呂はノリのいい野郎だった。

 そんなこともあった。まだ小さな野営で、キャラバンのようだった。

「あの時代を若さとでもいうんだろうな」

 捨てかけた医療用塵紙の赤黒さに見入り、塵箱へ塵紙を投げ捨てた。